大学とは? 研究とは?

しばらく書かないでいる間にアクセスだけは15,000件を超えた。
学内にも,新潟県内にも,ネット検索で見る限り新しい大学に対する期待やいい意味での熱狂が未だ見えず,どうなっているのかと思うばかり。
どうもまだ不確定要素があるようなのだが,以前から書いているように現短大と“新大学”はある意味ではシームレスである以上,“新大学”を免罪符に今の短大をよりよくしていこうという機運まで停滞してしまっては,今いる学生やこれから入ってくる学生にとってはたまったものではない。
2006年度も始まって1ヶ月が過ぎ,自分の講義やゼミで試行錯誤が始まっている中で,以前からいろいろ引用させてもらっているブログ5号館のつぶやきに以下のような刺激的・挑発的な発言があった。

      今いる学生を救おうとするのならば、大学に教育の得意な教員を増員することが最大の近道だと思います。研究業績と研究能力を基準に採用されてきているほとんどの大学教員に、今の大学の状況を「教育の充実」という方面から救えと命令しても、実現性はほとんど薄いと言わざるを得ません。今、研究に割いている時間とエネルギーをすべて教育に注いだとしても、残念ながらその能力を持った人は大学教員のうち多くみても2−3割しかいないと思います。さらに、多くの人がそんなことをする気はないと思っているでしょう。できない上にやる気がない人に命令しても、せいぜいできることは「やったふり」だけでしょう。

      そして、たとえ小さな研究でもその指導をすることができるのはやはりプロの研究者としての大学教員だと思います。プロの研究者であり続けるためには、たとえ時間やお金がなくとも少しずつでも研究を続けられる環境が必要なのです。また研究という営みを通じて、教員と学生は共同研究者としての連帯感を感じつつ、学生が一人前に研究ができるように育つというのが理想だと思っています。
このブログでも,私自身が大学卒業後も思考してきた大学という存在についての考えを時々書き散らかしているが,上の文章を読むと大学の中にいる責任とやりがいいうものを改めて感じてしまう。その思いは,自分自身時が経って獲得してきたものだし,それを眼前にいる学生に直裁に伝えることは至難なことなのだけれど,その雰囲気だけは今の短大でも“新大学”でも醸し出していきたいと切に思う。
そのことは偶然なのかどうか,立て続けに目にした以下の文章でも焚きつけられてしまうのだ。

      レンタカーを借りて、学生たちと合流する
      はずの指宿へ向かう。
      合流。いつの間にかこんなに学生がいたのか!
      とがんばらねば感を新たにする。
        《中略》
      11人もいるのか!
      こいつらみんなに学位を取らせて、就職させなければ
      ならない。
      うかうかしてはいられない。
      がんばらなければ。

      1年に1度めぐってくる大嫌いな卒業式。でも職業柄避けては通れない。研究室の卒業生にひとりずつ学位記を手渡すのがぼくのしてやれる最後の仕事。ニコニコして受け取る1人々々にもう明日からは会えない。会う機会はあるかもしれないけれど、机を並べてともに笑い泣いた日々はもう帰ってこない。懐かしい実験室も改修工事でじきに取壊しだ。みんな元気でね。今年の学会は京都なので明日からぼくも旅に出る。
教育という場は,他に変えられない存在なのだということをを改めて思わずにいられない。