オープンキャンパスを終えて

nicol052006-07-29

2006/07/17に書いたように先週はオープンキャンパスがあった(右画像は学生の作品と一緒に掲示した「生命情報学演習」でのポスター作例)。毎年,来てくれた高校生にまずは大学生活の楽しさを知ってもらいたいと思うのだが,今年はどうだったろうか。同記事にも書いたように国立大学も宣伝に力を入れるようになってきている中,北大では自分たちのフォーラムを見に来てもらうために札幌交響楽団の首席チェリストの生演奏が企画されていることが紹介されていた(明日です!)。

私のところの2日目のオープンキャンパスでは,父親と弟らしい小学校前の男の子も説明会場に来ていて,さて自分の担当のところで話す内容をその子も楽しめるように変更しなくてはと作戦を練っていたら(自分のPCをネットに接続して説明するので臨機応変が可能),その前の説明で退屈したのか途中で退席されてしまった。コンピュータ室だったので学生用のを1台立ち上げてゲームでもやっていてもらえばよかったと反省しきり。
学生時代,学内公開にはこども達も含めた多くの市民が訪ねてきてくれるので楽しませる展示や工夫をいろいろ先輩に教わったこともあり,お祭りになると血が騒ぐのである。今という時代になってみるといい経験をさせてもらったわけだが,大学は勉強だけではないと改めて思う。
オープンキャンパスから話ははずれるが,大学での学びに対する考え方も少しずつ変化してきているように感じている。自分の担当科目の中ではそれを取り入れたいと常に考えてはいるのだが,全学的にも検討していく必要があるだろう。
近年になって,窮鳥が研究室を訪ねてくることがしばしばある。他の先生の課題で参考図書を借りに来たり(他の研究室から卒業研究で必要な本を借りに来て,「指導教員には借たことを言わないでください」と言われたことも数年前にある),私が管理している演習室のパソコンを無断で使っていて「自分のゼミ室のパソコンは遅いから」と言い訳したり。コンピュータ室のパソコンは台数が限られているので,卒論締め切り時期になると足りなくて借りに来ることもしばしばである。先日は演習室から「他学科の学生が課題でスキャナを借りたがっているのだが」という電話が来た。どうにも勉強するのに必要なパソコンや書籍などの最低環境が不足しているのではないだろうか。
少なくとも自分の講義やゼミでは「ない,足りない」を言い訳にできないように,税金である研究費に加えて私費を投入してでも環境は十分に保ちたいと常に苦労している。もちろんその範囲でできる講義や卒研テーマを選ぶわけであるけれど(先日はある教授が学生に与えたテーマについてわからないことがあったらしくなんと電話で質問してきた。テーマが広過ぎて簡単には答えられずお断りしたけれど。ただし,「○○家の食卓」や「ある○○大事典」などのテレビ番組制作スタッフからも時々質問の電話があって,その場合は多くの人に伝わる情報なので可能な限りボランティアで協力している)。
またそのような学生と協力して取り組んだ成果はできる限りネットに公開して還元するように心がけているが,社会に向けて人まねではなく正確な情報発信ができる学生に入学してきて欲しいとオープンキャンパスでも訴えかけさせてもらった。
学ぶということ,それをどう活かしていくかを,学生にきちんと伝えていくシステムも新大学では必要である。